| Introduction 序盤アウトライン: |
| ゲオルグと妻のアナは、息子と共に親子水入らずで過ごす夏のバカンスに胸を弾ませていた。木々に囲まれた湖畔の別荘に向うその途中、見知らぬ若者を伴う隣人の態度に違和感を覚えたアナだったが、やがて、ゲオルグと息子が湖に繰り出す中、別荘に一人取り残されたアナのもとにペーターと名乗る見知らぬ若者がやって来る。それは、想像を絶する惨劇が幕を開けた瞬間だったーー |
| Various Note メモ: |
| 湖畔の別荘を訪れた家族を襲う不条理な暴力をヴィヴィッドに描く作品。その内容と所感は次段以降に。01年の「ピアニスト」では審査員特別グランプリを受賞、05年「隠された記憶」では監督賞を受賞したカンヌでは、パルム・ドール(Golden Palm)ノミネートの常連となったミヒャエル・ハネケの出世作。70年代中期から10本程度のTVドラマ演出や92年の"Benny's
Video"、94年の"71 Fragmente einer Chronologie des Zufalls"と云った劇場長編によってコアなファンの間では認知度の高かったミヒャエル・ハネケだが、この97年の「ファニー・ゲーム」では劇場長編の監督キャリアもわずか数作目にしていきなりのパルムドールのノミネート、その名を世界中に知らしめる事に。ちなみに、同年度のパルムドール受賞作品は、今村昌平監督の「うなぎ」と
アッバス・キアロスタミ監督の「桜桃の味」。 |
パルムドールでのノミネートに限らず、ファンタスポルトやシカゴ国際などでもミヒャエル・ハネケは監督賞などを受賞している。となれば、この作品にはどのような魅力があったのかと云う事になるが、一言で云ってしまえば、稀代の「後味の悪さ」を残す作品だったと云う事。云うまでもなく「後味が悪い」と云う感覚は最後まで鑑賞してのもの。ところが、途中退座を余儀なくされるほどこの作品はイライラさせてくれる。その理由も、あまりに非力な被害者の姿をヴィヴィッドに描いている為だが、そのイライラ感を引き出そうとする演出こそが、さまざまな評価にも値する作品の長所だったと云える。「ハリウッドなどではその実現も不可能なアンティテーゼ的手法によって暴力を否定する作品」などと云った形容はもっともらしく聞こえるかもしれないが、その実、作品の意図は全く違う。
以下、完全ネタバレ。未鑑賞の方はご留意下さい。 |
| 不条理な暴力の存在に警鐘を打ち鳴らすパラドックス的な意図に終始する作品だったのであれば、ショットガンで吹っ飛ばされた子供の死体が転がるカットをロングショットの固定カメラによる10分にも亘る長回しで映し出す事などあり得なかったはず。「理由なき暴力なんてとんでもない事です」などと云った不条理な暴力を否定するだけのシナリオだったのであれば、その不条理な暴力を振るう犯人らに制裁を加えるハッピーエンドが用意されていないのも不自然な話。また、「理不尽な暴力には充分警戒しましょう」と云った平和ボケの感覚に警鐘を打ち鳴らすだけのシナリオだったのであれば、被害者の屈辱に終始する100分間もの映像などあまりに悪趣味でナンセンスだったと云えるはず。 |
| そんな本作のポジティヴな意味でのメッセージはただ一つ。それは、刺し違える覚悟での行動を起こせないと云う事が如何に愚かしく嘆かわしいかと云う事。殺意に満ちた暴力と現実に向き合うような場合、例えその殺意を持つ相手が小動物などでも未曾有の恐怖を感じるものだが、要は、爆発しようとする眼前の時限爆弾をそのままにしておけるのかと云う状況での話。刺し違える覚悟があっても、身動き出来ないような状況であれば爆弾の撤去にも乗り出せない訳だが、その実、本作で描かれていた状況はやや違う。 |
| その序盤にして足を砕かれると云うハンディを背負うゲオルグだが、あの竦み上がってしまった萎縮した状態では「何も出来ないだろう」などと同調するようであれば、残念ながら作品のメッセージは響いていないと云う事。手足を拘束される中盤に至っては正に四面楚歌の状況だったとも云えるが、その絶体絶命の状況も、それ以前の反撃の機会をことごとく逃していた事を代償とするもの。 |
| 「そもそもが、腕力に自信もなく足に怪我を負っている男性なのだから」と云った同情論とは決別するシナリオだが、その最たる証は、愛する息子を惨殺された後に明らかとされる。あの惨劇の後、アナを屋外に送り出して一人邸内に残るゲオルグは、犯人が戻って来るかもしれないと考えながらも包丁の一つも隠し持っていない訳だが、成す術がありながらも何もしようとはしなかったその結末はご覧の通り。愛すべき息子の復讐も遂げられなかったばかりか、自身は切り刻まれた挙句に射殺され、女房は湖に突き落とされると云うこの上なく悲惨なものである。決して屈強な体格ではない2人の若造を犯人役と設定していた点も注視すべき所。 |
| カメラ目線の犯人のパウルが観客に語りかける演出や、劇中の映像をリヴァースさせるシュールな試みも、凄惨な映像を緩和させると云った短絡的な意図のものではなく、観客のイライラ感を募らせる為の駄目押し的な演出。あの救いようのないクライマックスの後、遣る瀬無さを募らせる観客に対して向けられる「この虚構たる映像も、現実に起こりうる虚構」と云った薀蓄のようなスクリプトも、長時間に及ぶ下種な映像でしか伝達する事が出来なかったメッセージのポテンシャルを釈明するもの。暴力に対して警鐘を打ち鳴らすだけのような作品であれば、スッキリとした別のエンディングなどで釈明せずに終える事も出来たのだろうが、ここでの観客に向けられると云う型破りなスクリプトは、先にも述べた然るべきポジティヴなメッセージにも気付いて欲しかった監督ハネケの苦肉の選択だったようにも思える所。 |
| 冒頭/中盤/エンドクレジットで挿入されるジョン・ゾーンの挿入曲は、コアなパンク一筋のような部分だけが抽出されていたりするが、ここは勘違いして欲しくない所。既にカルト化しているゾーンの音楽についての注釈など必要もない所だが、さまざまなカテゴリーを融合させる彼のスタイルは、劇中で披露されるようなコアなパートからいきなりバリバリの近代モードが炸裂するズージャに移り変わったりする前衛スタイル。前衛とは云っても、スケールや拍子などの取り決めを無視した垂れ流し音楽などではなく、飽くまで整然とした論理を前提に打ち出す見事なもの。ハードプログレなどと呼ばれる90年代から続くテクニカルなHRなど(ドリシアやクイーンズライチなど)に興味のある方であれば、避けては通れないはず。実際に、ここ日本でジョン・ゾーンを真っ先に歓迎したのは、いわゆるプログレファンだった。 |