| Introduction 序盤アウトライン: |
| 1939年9月、ワルシャワ。ラジオ番組のピアノ演奏で人気を得ていたウワディクことウワディスワフ・シュピルマンによるショパンの遺作「夜想曲第20番」が鳴り響く中、ドイツ軍の攻撃を受けた市街地の様相が一変、演奏を止めようとはしなかったウワディクだったが、建物の被弾と共に退避を余儀なくされる。ドイツ軍に占拠された街では、ユダヤ人のゲットーへの強制移住が開始され、ウワディクの家族も住み慣れた家を追われる。ウワディクはドイツ軍将校も出入りするカフェでピアニストとしての職を得ながら生計を立てるが、やがて、ウワディクの家族を含む大多数のユダヤ人が強制収容所へと搬送される。ウワディクは、知人の手引きで一人難を逃れるのだがーー |
| Various Note メモ: |
| 主演のエイドリアン・ブロディは、過酷な状況下に置かれたシュピルマンを演じる為に減量に挑戦、撮影前には73キロだった体重を僅か6週間で59キロにまで落としている。食事制限によるダイエットだったと云うそのメニューは、朝食が2個のゆで卵と緑茶、昼食に小ぶりの鶏肉、そして、鶏肉か魚の断片と蒸した野菜の夕食と云ったものだったと云う。また、極限下に置かれる主人公の心情に少しでも近づくべく、満たされた現代社会を象徴する愛車を売却、ゲットーではあり得ないテレビ鑑賞などもキッパリと止めてしまったと云う。 |
| その主役の座をブロディが得る以前、ロンドンで行われた主役の為のオーディションには1400人が参加、しかし、誰一人としてポランスキーの理想に適う人物は居なかったと云う。結果的には「マリー・アントワネットの首飾り」のロケーションの際に、パリでブロディと対面した事を思い出したポランスキーが、直々にオファーを出している。 |
| 強制収容所へ向う列車に乗り込むはずだったシュピルマンが助け出された後、急ぎ足になろうとする彼に「走るな!」と云う注意が促される場面、あれはポランスキーの実体験からインスパイアされたエピソードだと云う。 |
| 撮影前にロケハンを行ったポランスキーは、彼の家族をホロコーストの悲劇から助けてくれた恩人との再会をクラクフで果たしている。 |
| オランダでの初日の興行収益は、アンネ・フランク記念館に寄贈されている。 |
| 先述の通り、フランスで開催されるセザール賞では7部門の栄冠に輝いている本作だが、フランス語以外の言語による作品が作品賞を受賞したのは史上初の出来事だったと云う。 |
| ラジオ局の各シークエンスで演奏される「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ(ショパンの遺作でもあるノクターン第20番C#マイナー)」をシュピルマン氏が実際にプレイする映像や長時間のインタビューも含むドキュメンタリーが衛星放送でオンエアされたが、これが実に興味深かった。シュピルマン氏本人の説明によれば、劇中にも登場するラジオ局での専属ピアニストとしてのポジションは、どんなジャンルの演奏にも対応出来ると云う条件で募集が行われた1935年のラジオ局主催によるコンクールを勝ち上がって優勝して得たもので、エイプリル・フールである4月1日に専属ピアニストとしての「身分証」が発行されている。そのラジオ局の発行する「身分証」だが、このライセンスから齎される影響力と云うものは、昨今では考えれないほどのもので、シュピルマン氏の話によれば、大統領と面談がしたいと言えば実現してしまう程のステイタスだったらしい。 |
| この専属ピアニストとしての地位を与えられた事が契機となりシュピルマン氏は作曲活動にも精力を注ぐようになったと云う。50年にも及ぶ作曲活動で書き上げた曲は、大人向けの作品で500曲、そして子供向けの作品で100曲と云う数になるものだが、氏の弁によれば、僅か数曲を除けば特に未練のある曲はなかったと云う。「赤いバス」「私は歌を信じない」「旧市街に行くわ」、そして詩人のガウチンスキーが作詞を担当した「雨」と云った楽曲が捨て難い思い入れの深い曲で、「過去はもう帰ってこない」と云う曲のように作曲者としてのクレジットを伏せてリリースしたような納得の出来ない曲もあったと云う。 |
| 劇中で描かれているシュピルマン氏の逃亡劇がほぼ正確なものだと云う事は、番組でのインタビューでも判るもので、氏は実に正確な記憶として述懐している。劇中では数箇所の住居を転々として生きながらえる主人公だが、実際には氏が憶えているだけでも25にも及ぶ家族に匿われたもので、その匿ってくれた家族の殆どは強制収容所に送られ、劇中での描写の通りワルシャワは蛻の殻のようになってしまったらしい。44年8月1日に始まったワルシャワ蜂起が鎮圧された後にも同氏はワルシャワに残り、ようやく探し当てた食料と云えばパン屑だけと云う生活を45年の1月20日まで続けていたと云う。それは「犬のような生活」だったと氏は表現しているが、蜂起に備えていた市民が非常用の水分を蓄えていた事が、生き長らえる事の出来た最大の要因だったと氏はしみじみと述懐。 |
| 劇中でも描かれているドイツ人将校との出会いは11月のある日だったと云う。食料を探す為に建物を転々としていた際に「手を挙げろ」と云う声を聞いたのがその出会いの始まりで、床に這い蹲っていた同氏が立ち上がると、ピストルも構えていないドイツ人将校が目の前にいたと云う。氏の言葉によれば、その美男子の将校はドイツ人兵士のような粗暴な物言いではなく、丁寧なドイツ語で話しかけて来たらしいが、以下は、述懐するシュピルマン氏の言葉そのままの会話の記録。 |
ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉
「君に何もする気はない。恐がらなくてもいいんだよ。でも、君は一体ここで何をしているんだね?」
シュピルマン氏
「ここは私の家で、どうなっているのかが心配で訪ねて来ました」(これは咄嗟を吐いて出た嘘)
ホーゼンフェルト大尉
「ワルシャワに居られない事は知っているね? 憲兵の元に出頭する事を勧めるよ」
シュピルマン氏
「生まれに問題があるので、、、」
ホーゼンフェルト大尉
「あー、、そうなると話は別だね。 弱ったな、、ところで君の仕事は?」
シュピルマン氏
「私は、ピアニストです」
ホーゼンフェルト大尉
「私の為に何か弾いてくれませんか? もし誰か来ても、上手くごまかしますから」
ここでシュピルマン氏は、当時の状況を
「私の手もピアノの鍵盤もボロボロでしたが、彼の為にショパンのノクターンを弾いてあげました」
と述懐している。 |
| それ以来、ホーゼンフェルト大尉にシュピルマン氏は匿われたらしいが、シュピルマン氏はホーゼンフェルト大尉の名前を努めて聞こうとはしなかったと云う。その理由は、万一、捕まった際に受ける拷問で匿った人物の名前としてホーゼンフェルト大尉の名前を明かしてしまうような事もあり得ると配慮していたため。ドイツ軍のワルシャワ撤退と同時に迎えたホーゼンフェルトとの別れ際には「戦後、あなたの身に何かあったら、私宛に手紙を下さい。私はポーランドラジオ局のウワディスワフ・シュピルマンです。あなたの為に出来る限りの事をしますから」とシュピルマン氏はホーゼンフェルトに告げたと云う。 |
| ポーランドが解放された翌月の45年2月、ワルシャワの新しいラジオ局は普通の民家の中で運営され、グランドではなくアップライト一台だけが設置されたスタジオとしてのスペース、その隣の部屋がバスルーム、他の4つの部屋には職員が駐在していたと云う。番組では他にも色々な話を述懐しているが、最も興味深かったのは、大袈裟に言えば70年代のワイト島で行われたようなオムニバス形式のフェスティバルを、ラジオ局のポピュラー部門のチーフとなったシュピルマン氏が中心となって50年当時にポーランドで行っていたと云う話である。これは、他の欧州諸国からもゲストを招聘したもので、ポーランドの曲を必ず一曲はカヴァーしなければならないと云う条件が実に興味深い。この企画のそもそもの意図は、西ヨーロッパには伝えられる事が皆無だったポーランドの優れた音楽を、西側のアーティストと共に来国する西側の聴衆に聴かせる事が、貴重なアピールの機会となると云った発想だったものである。実に趣の深い企画だった訳だが、賞賛されるべきだった同氏はマスコミからのバッシングを受けてしまう。翌年の第2回目のフェスティバル運営に同氏は携わるものの、ポピュラー界に愛想を付かしたシュピルマン氏は、ポピュラー音楽とは一線を引いた活動に身を投じるべくワルシャワ五重奏団を結成、世界を巡業しクラシック界での名声を得る訳である。 |
| その世界公演では常に大絶賛を浴びていた訳だが、シュピルマン氏によれば賞賛される事にも全く驚きは無かったと云う。何故ならば、世界的な名声を得ていたヴァイオリニストのヴロニスワフ・ギンペルやタデウシュ・ヴロンスキを擁したクインテットは当代最強の布陣だったと自覚していた為である。その巡業は、ヨーロッパ各国でのそれぞれ20回以上にも及ぶ公演はもとより、日本、香港、インド、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、キューバ、メキシコ、パナマと云った正に世界規模の巡業だったものである。 |
| シュピルマン氏は、生き残ったと云う現実に対しては複雑な心境を述べている。戦後に授かった素晴らしい家族や孫を何より誇りに思いながらも、同時に自分一人だけが生き残るべきではなく「両親と共に死ぬべきだったのかもしれない」と云う痛烈な言葉をも用いてその心情を吐露している。 |
| 本作の下敷きとなっているシュピルマン氏の回顧録は、49年にクルナコビチ主演による「ワルシャワのロビンソン」と云う作品で映像化されているが、ロビンソン・クルーソーとシュピルマン氏を掛け合わせたその脚色では、主人公を含む5人の男女が廃墟のワルシャワに登場するもので、シュピルマン氏がユダヤ人であったと云う事実すら描かれていないものである。しかし、このシュピルマン氏の回顧録とは掛け離れた「ワルシャワのロビンソン」と云う作品ですら陽の目を見る事無くお蔵入りになってしまったもので、社会主義体制の検閲により大幅に脚色された同作品は、翌年の50年に改訂版の「不屈の都市」として漸く一般公開されるが、その改訂版の内容はと云えば、蛻の殻だったはずのワルシャワで不可解な銃撃戦が展開されると云う実にシュールな顛末だったと云う。これは、ワルシャワ蜂起にも参戦出来たはずのソ連軍が、何故、沈黙を守っていたのかと云った挿話が大挙追加されていた為である。シュピルマン夫人によれば、その「不屈の都市」を観たシュピルマン氏は愕然としていたらしい。 |
| 世紀を越えた2002年、本作「戦場のピアニスト」として漸く正しい形で映像化されたシュピルマン氏の回顧録だが、それはドイツで98年に出版された回顧録の正しい翻訳本の出版がその契機となったもので、その後、欧州各国でも翻訳本が出版され反響を得た事で映像化の運びとなったもの。 |
| 本作の完成を待たずして逝去されたシュピルマン氏だが、作品を鑑賞した夫人によれば、この作品の鑑賞にシュピルマン氏が耐えられたかどうかは疑問だと云う。それは、ここでのシナリオが、シュピルマン氏にとって最も辛い時代を呼び起こす事になるリアリズムに富んだものだったからと夫人はコメントしている。 |
| 怒涛のクライマックスは、ドイツ軍将校ホーゼンフェルトに敢えて投げ付けるようにプレイするショパンである。このシークエンスこそが作品のインパクトを集約している。個人的には未読の原作著書では曲目の設定が違うと云う事らしいが、クライマックスとしてバラード第1番Gm作品23をぶつけて来たこちらの映像作品での選択は大正解だったと云わざるを得ない。作品のテーマとも云えるノクタ-ンC#mでも相応のインパクトがあるとは思われるが、要は、主人公の封印されていた爆発的なモチベーションを聞き手に伝える為のダイナミズムの問題なのである。 |
| シュピルマン氏が語っているように「指も鍵盤もボロボロ」と云う状況で、劇中のパフォーマンスは常識的に考えればあり得ないものである。打弦したまま返りのない鍵盤などは一個ならずとも何個もあったはずで、何より、数年間もシェイプの出来ていなかった人物が、あの飲めず食えずと云った体験を経た後に華麗なパフォーマンスを披露すると云うのも常識では無理がある訳である。しかし、誰もが想像出来ない「遂に弾ける」と云う爆発的なモチベーションを抱いたシュピルマン氏が現実に行ったプレイには、劇中で描き出される絶妙なパフォーマンスをも超越した何かがあったはずで、その鬼気迫るモチベーションで行われたパフォーマンスを再現するには、現実に演奏されたノクタ-ンC#mでは役不足だったようにも思えるのである。製作現場の舞台裏についての情報は持ち合わせていないが、常識に即した妙なリアリズムを再現すべきかどうかと云うある種の葛藤があったとも想像出来る所で、結果的には、一世一代と云ったモチベーションを再現すべくGm23をストレートにぶつけてきたと云う選択が最高のインパクトを注入していたように思える。プレイヤーとしての聞き手の間でも物議を醸したと云う話は殆ど耳にしていない。腰の抜ける感覚も覚える衝撃のクライマックス。粋なエンドクレジットも嬉しい。 |
| 02年の米アカデミーでは「作品賞」「主演男優賞」「監督賞」「脚色賞」「撮影賞」「衣裳デザイン賞」「編集賞」の計7部門でノミネート、「主演男優賞(エイドリアン・ブロディ)」「監督賞(ロマン・ポランスキー)」「脚色賞(ロナルド・ハーウッド)」の3部門で受賞を果している。また、同年度のカンヌ国際では、監督のロマン・ポランスキーが「パルム・ドール」を獲得。 |
| 同年度に於ける他の受賞記録としては、全米批評家協会賞の「作品賞」「主演男優賞(エイドリアン・ブロディ)」「監督賞(ロマン・ポランスキー)」「脚本賞(ロナルド・ハーウッド)」以上の4部門、英国アカデミーでは「作品賞と監督賞=デヴィッド・リーン賞(ロマン・ポランスキー)」の2部門、ヨーロッパ映画賞では「撮影賞(パヴェル・エデルマン)」を受賞、そして、仏セザールでは「作品賞」「主演男優賞(エイドリアン・ブロディ)」「監督賞(ロマン・ポランスキー)」「音楽賞(ヴォイチェフ・キラール)」「撮影賞(パヴェル・エデルマン)」「音響賞」「美術賞」の7部門で受賞を果している。 |