| Introduction 序盤アウトライン: |
| 1984年、イギリス。裕福な青年と結婚して間もなかったサラは、久々の再会となる姉らと共に慈善活動をする義父のシンパが集うパーティに参加し、その会場の華やかな雰囲気を満喫していた。やがて、会場が落ち着きを見せた頃、サラの運命を変える瞬間が訪れる。突如、痩せ細ったエチオピアの少年を同伴した青年医師ニックが会場に乱入、その現実を直視しない慈善事業の偽善的な価値観を真っ向から否定すると、貧困に喘ぐ国々の危機的現状を訴えかける。翌日、会場から連行された少年が逃走後に死亡した事を知ったサラは、周囲の反対を他所に、私財を叩いて混迷するエチオピアへと向う決意をするのだがーー |
| Various Note メモ: |
以下、完全ネタバレ。未鑑賞の方はご留意下さい。
ジョリー演じる主人公のサラは、ロンドンの自宅で「家庭人」としての生活を各インターバルに挟みながら、エチオピア-カンボジア-チェチェンとその舞台を移動する訳である。サラとニック(クライヴ・オーウェン)の急接近は、カンボジアでの終盤で描かれるものだが、一旦帰還してからの誕生パーティーを経て、その直後に迎えるチェチェンでのシークエンスを目の当たりにするまで、正直、邦題に付けられたタイトルの意味もピンと来ない。初めてNGOと合流するエチオピアから帰還した後に嘱託的な国連職員として救済活動に関わってはいるものの、次なるカンボジアに赴くと云う行動はエメリッヒ演じるエリオットが唐突に接近して来る事で実現されるものだが、この間に於いては、サラとニックのロマンスを描くモチーフは皆無にも近いもので、人道支援と云うテーマの下で展開される人間愛を描いた物語以外の何物でもないと云った印象である。 |
| 続くカンボジアで、ようやくニックとの急接近を迎えるサラだが、これはある意味、刹那的なコントラストにも映らなくもない展開であり、ここでもまだ恋愛を主軸にしているドラマと云う印象はない。しかも、ベトナム軍の助けもあり時間が稼げると云う設定だが、血眼になったクメール・ルージュの標的となっている最中に、あの安堵の一夜はあり得ないと云った所で、もし、国境を越えていたのであれば、ワン・カットでも説明を提示して欲しかった所。クメール・ルージュの夜襲に遭うのではないかと、ヒヤヒヤして落ち着いて見れないのだ。 |
| そして、人道支援と云うモチーフとは切り離されたチェチェンを舞台にしたシークエンスで、それまでの様相が急転直下を迎える訳である。しかも、待ち受けるのは、あの超劇的なクライマックス、そして、その最後はNGO活動を続ける人々への敬意を捧げたテロップで終幕を迎えている。この混沌としたコントラストには困惑せざるを得ないと云った所だろう。 |
| しかも、困惑するのは視点の定まっていないテーマと云う事だけではない。ようやくその終盤で加速される恋愛感情と云ったものを、何故「家庭人」と云う背景を引き合いに出してまで強調しようとするのかも疑問である。家庭を持ちながらも、第三者との恋愛に情熱を注ぐと云ったコントラストは、ある意味、普遍的なモチーフとも云えるものだが、それにしても、聞き手を納得させるべく、夫婦の喧騒の後に亭主ヘンリーの疑惑の場面を挿入するとは、実にあり得ない演出である。これは全く逆だろう。本作のシチュエーションに即した形で「真実の愛」なるものを描くのであれば、夫婦の不仲と云った描写は完全にタブーなのである。不仲なのだからある意味仕方がないのでは、、と云った描写では「真実の愛」どころか刹那的な浮気と一緒になってしまう。夫婦仲は円満、しかし、ニックとの恋愛は命を賭けてでも成就したいと云った語り口であれば、聞き手の方でも選択肢を与えられる形になる訳である。 |
| ただ、その真実の恋愛路線に曇りがないと云う設定であっても、軽率な感想などは挟めるものでもない「人道支援」と云う重すぎるモチーフを、不実の恋愛の背景にしてしまっては問題だろう。「夫婦は不仲、でも、NGOで真実の彼との出会いがありました」などと云う印象を与えてしまう事は、その背景として描かれた切実な社会問題の重さを熟考すれば、正にあり得ないと云った所。 |
| 要は、プロットの設定が最初から違っていたと云う事である。サラを家庭人として登場させるのではなく、やや世間知らずと云った上流社会の独身女性、その彼女は人道支援に関心を寄せてエチオピアには赴くものの、想像を絶する現地での厳しさに理想は頓挫。しかし、既に地獄に遭遇しているニックから人道支援の真の尊さを厳しくも教えられる。このような触りでその序盤から芽生える恋愛感情を、常に物語の中心に据えるべくして盛り上げれば、そのクライマックスに迎える結末は自然な形で劇的に見えるものになるものである。 |
| ただ、百歩譲って、どうしてもサラを家庭人として描きたいと云うのであれば、エチオピアでの序盤から明確な形での恋愛路線を貫く必要があり、言い訳じみた夫婦の不仲と云った描写はタブーだったと云う事である。しかし、これでもやはり無理がある。亭主のヘンリーはさて置き、サラの子供たちにはどのように落とし前をつけるのかと云う事だ。子供を蔑ろにしてまで貫こうとする身勝手で無責任な価値観は、NGOへ敬意を払うと云ったテーマとは完璧に相容れないものである。その最後でニックはサラの自宅を訪れる。実の我が子との対面を果せると云う事は感動的ではあるのだが、その後の展開は劇中では描かれてはいない。一体、聞き手にはどのように想像させたかったものなのか。ここまで気持ちの滅入るエピローグと云うのも珍しい。 |
| ただ、この作品には、特筆すべき部分もある。それは、一連の戦闘シークエンスなどを描き出したヴィジュアル面での垢抜けた迫力だが、チェチェンについて間もなくの所、スナイパーの攻撃を掻い潜る場面、ゲリラのアジトである山中が攻撃に曝される場面、これらのシークエンスで見せる映像のグルーヴ感は、超一流のスキルと云えるもの。緊張感溢れるカンボジアでの一連のシークエンスも、あの逃走劇を終えて迎える夜のシークエンスを除けば好印象と云った所。 |
| 個人的な印象をまとめれば、理不尽極まりない不義のプロットを、真しやかな大恋愛劇として臆する事なく描き切ると云った所になってしまう。そのさまざまな民族間での倫理観については、宗教観や生活様式の違いなどによって多大なギャップが生み出される事もある訳だが、ここで描かれるフィーリングは、世界各国のあらゆる地域、端的に云えば、万国共通で拒絶されるものではないだろうか。 |